• お手数ですが、

    きのう申し込んだブログはたくさんの問題が出たので、

    新しい日本語のブログに移転しなければならないです。

    お手数ですが、すみませんでした。

    http://akirayoshuo.blog.sohu.com/

  • 皆さん、明けましておめでとうございます。

    いろいろな原因で

    お手数ですが、

    今日からマイブログが以下のアドレスに移転します。

    http://akirayoushuo.blog.sohu.com/

    これからもよろしくおねがいします。

    やはりこのブログにはなつかしく思うのでしょう、将来!

  • HAPPY NEW YEAR !

    2007-12-31

    今は北京時間二十一時四十一分です。

    イノシシの年はすぐに終わりそうになりますが、ネズミの年はすぐに登場します。 一年の最後の日なので、公務員とかサラリーマンとか学校はお休みですが、太陽が一刻も休まず、八時間も働きました。お疲れ様でした。でも残念ながら、太陽と風との間の対決の中で、太陽が完全に負けてしまいました。だから、陽射しが精一杯で頭の上に降り注いでいましたけれど、温かみなんてぜんぜん受け入れませんでした。寒さのあまりのせいか、膝頭がガチガチにこわばられ、耳が赤く凍りつかられました。

    イノシシの元日には、わたしはあの時何をしていましたか?あのときまた本科生でしたが、レンドしたひとつの部屋が大変寒くて、おまけに大学院生の受験が控え、身体的にも心理的にも圧力がでっかいだったことと覚えました。あっという間に、やはり同じような寒いですが、院生の寮のルームに変わり、院生の身分に変身しました。パソコンの前にすわってこんな文字を書いているのはほんとうに不思議なあと思います。一月のときにおそらく十二月のことと予測できるのは難しいでしょう。

     明日は新しい一年ですね。わたしの本命年がもうすぐに幕切れですが、一年中の楽しみとか悲しみとかは全部優しい風ようになって、心のところに吹き込みました。この一年の中にはたくさんの遠回りをしましたけど、あなたがいつもそばにいて、実際のことは頭の中に想像どおりに寂しさほどがありません。みなさんのおかげて、わたしは無事で健康で今日まで歩いてきましたから、ありがとうございました。

     さて、新年のベルが響きます。対岸のK先生に、よいお年をお迎えくださいね。今年は色々お世話になりまして、感謝します。来年もよろしくお願いします。

     今は北京時間二十二時五十分です。

  • SAYONARA

    2007-12-29

    お別れの季節です。冬のお昼の太陽が輝かしいですが、わずかなぬくもりのおかげをこうむることがすこしもないです。ポカポカとした天国のドアがどこにわたしのために開いていますか。梧桐の落ち葉も、わたしのいるとこから離れてどこへ運ばせられますか、くそ大きなキャンパスにはわたしだけが残されます。 

    自転車も寂しくなります。夏から年末の冬まで同じような道を往来を繰り返してぜひたくさんの知り合いができたのでしょう。しかしいまは、友達がすぐにふるさとに帰りつけるご主人に鉄のはしらにかぎをつけて動けなくなるので、きのうまたあうことができ、きょうはセメントの剥ぎだしの並木道に滑っている荷物箱だけになったのです。 

    裏山の深い深い森へ行きたいです。あそこはきっと群れの精霊が遊ぶ行楽地があると信じ込んでいますから。暮らしにインスピレーションが充分にあるし、毎日毎日にいろんな鮮やかな出来事に会うことができ、なにもかもにモチベーションが満ちます。大切な親友がいつもそばにいますから、寂しがるなんてとはぜんぜん感じません。

     しらずしらずのうちにキーボードにたたいている両手がかじかみになってきます。夜よ、はやめに終わりましょう。ウインターよ、はやく雪を降らせましょう。お昼はすでにそんなに短いですが、雪の白をこのグレーな世界を輝く照らせましょう。何が言いたいのはもうあいまいになったのですが、たぶんこの夜空に預かったかもしれません。

  • もともときのうのブログの文章なのに、学校のネットのスピードが遅すぎたので、

    きょうはしか張らないです。

     

    昨日はクリスマスイブでした。早朝の六時半に自分で定まった目覚まし時計に起きられました。23日、二人の友人と一緒に武漢では軽食の一番隠れもない戸部へ行きました。平日門口の前だけを通り過ぎる私は、自慢ではないですけど、入る回数がただ数えるほどしかないです。あそこの店の不衛生の状況に心配しているより、むしろ自分の脆すぎる消化系統にも自信がないといったほうがいい。 

    それにしても、美食家の友人に強く誘われたの状況の下で、最終に八つ種類ほどの食物を一気に呑みました。本当に美味しいでしたが、結果、消化の機能が完全に狂ってしまいせいか、お腹が激痛になってこらえられなかったのです。 

    しかたがなく、当夜はどうしても華科に帰られなくなったので、財大の首義キャンパスに一晩宿泊せざるを得なかったのです。時間の流れが速すぎたと感じて、あっという間にイブの朝になりました。イブの昼飯は自分の手で作ろう、と友達とあらかじめ約束して、場所が高校時代の知り合いの住所と決まったという特殊の計画でした。しかるに、部屋のかぎがまだ手に取らなくて、寒い冬の朝に早く起きて、友人の仕事始めの朝九時前に間に合ってかぎを取りに行くを余儀なくされました。大変でした。 イブの

    お昼になり、三男三女総計で六人は一緒におかず売りの農貿市場で自分の得意の料理に必要がある食材を選び買いました。汚れた農貿市場ですけど、女の子にとってまるで絶好のショー場所といえます。選び比べたり値段を切ったりするなどは、男の子の私に絶対的な力を出せないところだと思います。

     六人は次から次へと料理を作りました。やはり料理達者はほとんどあのかわいい女の子ですが、われわれ男の子はほとんど台所に敬遠してます。ただし、まじめな気持ちをこめて作った皆さんの料理は、ほんとうにうまいでした。外は寒い雨天でしたが、裏はとても暖かいでした。 大変疲れたせいか、ただ二杯だけのお酒を飲んだ私は、すぐに酔ってしまいました。そのままで、イブの夜を迎えました。繁華街は賑やかな海洋になり、人々は貴重なチャンスをつかむようにどこかへ行けばいいか重要ではなし、漫遊そのものが一種の儀式です。 

    今日はクリスマスの日です。目を零れたりする一瞬に終わりに入っています。今年はたくさんの友達と一緒になって過ごすのは心からありがたいのでしたが、あの一緒になれない友達というと、ぜひ心の片隅ですでに出会って、もっとも誠心の祝福を捧げたのでしょうと思います。  

  • 午後「マルクス哲学」という授業があった。 講壇になんかやる気がありそうな先生があった。残念ながら、おそらくこのクラスに座っていて、この教授の名前を知っている諸君がいないと思う。もし、知れば変な人とされているのかもしれない。

     ほら、今の大学院生を見てよ。彼らはいったい何をするのだ。ほとんどはまた父母のお金を平気で払っている「子供」だが、ある程度にこの国の未来のはしらになると念願される「人材」だ。しかし、彼らはこの神聖の知識の殿のなかの姿がどんなふうに映っているのか。

     雑誌とか無関係の課外書籍とかなんてじっと見ていて、教授の諭したことにぜんぜん聞かなかった。疲れたら携帯を出してお互いに発信やら受信やらして、あずかり知らぬ顔をして、大音量でメールのなかに伝えた笑い話をくどくどとしゃべるなどなど。クラスの秩序さえも無視して、世間話やらエンテーテイメント界の退屈なうわさを元気そうな顔でしゃべる学生も周辺に多い。ああ、教授本人が、このすべての状況を目に入れても、見ても見ないふりをするとか、我慢して怒りをこらえるとかなんてしかない、心の中だけにも嘆いているだろうなあ。 

    「マルクス」に興味が一向もないという理由が成立するわけではない。なぜかというと、実は、本科時代から専門の必修課さえも興味を少しも出さない学生が沢山出てきたということは、真の事実だからさ。わたしは自分自身で卒業時、学生らがかつての学んだ本を売る情景を体験した。一つのページもめくることのなく、新しい書籍はゴミにされて、このままで名残のなく、売られたということを、いまでもはっきり覚えている、ほんとうに気の毒がった。

     大学院生階段にやっと入る私達は、学業のフアイレルにどのような成績を出すのか。将来の社会のこんなに激しい競争に応えるのか。未来へ歩ける人間になれるのか。   

  • 使用寿命がただ三ヶ月半だけがあって、今日まで当番のビルの下で犠牲した。いま君はどこに誘拐されたか、泣いているのか? 

    この泥棒の横行の大学には、自転車が盗まれたということは、決してそんなにビックリすることではない。こんなショックに遭うのはご飯を食べるように普通なことだ。泥棒は身の回りにたくさんいると実感するのだが、このことを解決する人がいない、学校側も何食わぬをしている顔だ。こうして残るのは犯罪の氾濫しているキャンパスということだ。

     まだ余計なお金を払わなければならないということは肯定的なことだが、新しいのを手入れにした後で、まだ安全性を保つことができるかどうか、この学校の管理部門が保証してくれるのか、疑問を持っているのだ。 

    じつはすでに大変ぼろぼろになった自転車さえは、悪運の手のひらを逃げ出さなかったのに、それでは、次のは財布とか、パソコンとか、それとも布団とかなどと思うと、怖がる。

     

  • 教務課で当番していたところに、主任さんが、片隅で山積みの院生のレポートを指でさして言ってくれた。「これらはゴミなんだぞ」。

     

     

    わが国では、レポートの数量が全世界一だそうだ。じつに、本科生までも中間論文発表と卒業論文発表を定刻に完成しなければならないと決まりだ。いうまでもなく、本科生とすれば、いまの大学教育品質が悪くなってきたこの世こそに、すばらしいレポートとか、実際の社会や学術に役立つレポートとかが、書けるのは難しいだろう。レポートの敷き写しの状況が深刻化になってきたということは、誰しもがよく知っていることだろう。しかしながら、仕方がない。騙したり騙されたりすることは、いまの世の実像だと少しも言い過ぎないのだ。

     

     

    年末のレポートに追い込まれている私が、毎日辛気臭いのだ。パソコンの前に毎日毎日、探したりコピーしたり直したりして、目が目まいになってきた気がした。三編のレポートで、少なくとも10000字の工程量にあたり、三つの大きい山のように、一息をする暇までもない。

     しかし、出直しなければいけないだろう。こんな気持ちをもってクリスマスを迎えたくなくなるのだから

  • 大学の文化祭のたびに上演する「音楽舞台劇」の中には、恋人と扮する男女学生がいつも、小さな赤い傘をともにさして、人工の白い雪が降っている舞台の中央に立ち止って、一緒に雪見して、親しくささやいている。このときこそ、いつも恋人の背後には、往来している通行人が、恋人のデートのところの舞台背景を構築した。 

    私は、いまタクシーで次の目的地への途中にある。

     広く、平べったいストーリに走っているタクシーの乗り心地は、快適だと理屈でいうのが、なぜ、なんとはなしに助手席に座っている私の心が凸凹になってしまったのだ。 

    なぜかというと、ほら、運転手さんと私の前方には、「街頭の音楽舞台劇」が上映しているからだ。ストーリの両辺から、さまざまなポーズを作って、何食わぬ顔をして気軽に道を横断しているのは、「ストーリの脇役」こそという方々だ。 

    ストーリの主役は、もともとに自動車だが、いつからこれらの脇役は観客様の瞳を占拠したか知らなかったのだ。こうして、音楽劇の秩序が乱されたのではないか。本来、横断歩道を歩んで通行するはずだったが、ストーリの舞台で暴走し始めた。

     自動車は初めて完全にびくっりされたが、暴走している人々にぶつかりそうになるこの一瞬間に、緊急ストップしなければならなかったが、落ち着いてからも我慢できなくなかったせいか、通行人と対決の姿勢を作ってしまった。ラッパを気が狂って押し付けたり、「くそくらえ」なんての文句まで言い切ってはじめた。

     コントロールをぜんぜん失ったストーリになってしまった。「危うい」なんて誰もが気がせず、私だけが「生き抜けたい」というものみたいのだけど。

     

  • 今天我超级高兴!

    今天我蛮高兴!

     完全に同じ意味、この二つの言葉は。ただ中国語の外国人初学者だけのかもしれぬ。実際に、言葉の意味の立場からいえば、深く掘り出す価値が確かにないが、文化の角度から見えると、たぶんなんらかのとんでもないことが湧くように見えると言えなくもない。

     漢字の「」は、まずはどういう意味なのか。「とても」とか、「非常に」とか、「ほんとうに」とかなどのことばに替わる。ただし、中国の長江以南地域でよく使われているこの字は、中国語勉強に志向する外国人がたぶん漢語クラスの場合で見るとか聞くとか何回数えるほどしかないが、身に着けるところまで言っていないかもしれぬ。

     湖北省出身としての私は、この字の使用については生まれつき身に着ける言語力と言えよう。普段特別な興味を出すことがないが、こんなことが起こったまでに。ある日、河南省出身のルームメートが、「南方人が毎日使っているこの「」字が大嫌い」と宣言した。なぜかって、「とにもかくにも、聞きにくい」と答えられた。ええ?驚きびっくりした。こうして、この漢字を愛用している私も嫌いだろう、ひと時何を言ったらいいか面食らってしまった。

     実は、この地方弁の「」字を全国に広げさせる力が、絶対にこの字を毎日使用している南方人ではなし、台湾地域からアイドルの話し言葉や娯楽番組の人気上々だ。台湾のポップカルチャーが中国で芽生え、しだいに大歓迎を受けているというわけだ。マスコミを通して、完全にこの「」を使用していない伝統的な南方地域以外のところも、とくにあそこの若者がだんだんこの字が好き、よく愛用するようになってきた。 この角度からいうと、この漢字が好きだというよりも、むしろ香港か台湾なんぞのところの生き生きとした流行っている文化が大好きだといえよう。 

    しかしながら、裏面からみると、「」という字が嫌い人の出現は、潜在意識でしだいに湧いてきた「南北の矛盾」のひとつの表現のかもしれぬ。南宋以後、中国の経済中心は長江以南地域に移られたが、相対に文化の栄えのために栄養の豊かな土を提供した。改革開放のはじめからそれまで、中国南方というところが全国の経済・文化の重心地となってきた。この背景に基づき、経済のあまりの発達ない北方に住んでいる人々へ差別扱いの勢いが強くなってきた。たとえば、「広東省のポリスーマンが河南省の農民工へ差別扱い事件」はこのひとつの例だ。それと同時に、北方に位置する中央政府のマスコミ管理局が、最近「全国のテレビ番組中、「」などの「港台のなまり」の勝手の使用を厳禁」という提案を出したそうだ。

     これはすでに見過ごすことができない社会問題になったぞ。   

  • 火垂るの墓

    2007-12-10

    加害者としての日本側が撮った映画・「火垂るの墓」を、おくればせに鑑賞した。

     物語の背景には、第二次世界大戦の後半期にある、アメリカがすでに日本本土への攻めを発動し始めた。燃焼砲弾を載っておいたアメリカ空軍の黒い煙が、町の上のしっとりとした空をきり破ってしまった。東京につけ神戸につけ焼け野原に化するのは瞬間のことだった。けがをしたっり、死をしたっり、親と友とは分離したっりすることが、戦争中の人間の運命悲劇だった。

     皇国のいわゆるおろかなジハードのために命を送る人にしてろ、強迫に戦場に追い込まれる人にしろ、婦人らと子供らとはみんな、彼らとる涙別。 海軍将領の未成年の息子・清太といもうとの節子の母親がアメリカの空襲中でなくなった。父親が率いる聯合艦隊が敵国のアメリカ軍を必ず打ち破って、仇討ちをして、この正義かどうかなんかはっきりと見えない戦争に負けないに違いない、ということと信じ込んでいた清太君が、節子さんといっしょに、母親といとこ姉妹関係のおばさん・久子さんの家にしばらく移住して、父親の勝利帰来を待っていた。 

    その後、久子さんの参軍したご主人も、戦場で死去。咳っぽいの末っ子が栄養不良のもので死様とすれ違った。もとに四人の子を養っていたが、清太君と節子さんを加えて、食糧配給の特別な時期に生きていたせいか、一家の暮らしがだんだん大変困った羽目になった。 そんなに重い命が、いったいどうしたら、そんなにとんでもない戦争の中で生き抜けるのかな。

     おばさんの久子さんが、まず母親だった。自分の子をまず生きさせてもらいたいと思うのは当たり前のことだろう。これはご主人がなくなってからこの戦争への覚悟だった。清太君と節子さんというと、生き残るならもちろんよかった。 表では見れれば、矛盾のアイスはおばさんと清太君の間に爆発した「米の戦争」だった。裏では見れれば、米を争って生き抜くの「生存の戦争」だった。これこそが「戦争そのものの残酷さ」の真な顔だった。 

    ストーリーの結末は、節子さんが飢えすぎだった状態中でこの世と永遠に別れた。戦争遺留子供としての兄貴の清太君も汽車駅で悲しくなくなった。手にはいもうとのかつてのキャンデーボックスで、中にはいもうとの遺骨だった。

     清太君と節子さんの父親も、久子さんのご主人も、この実際の不義の中で、彼らといるところとあまり遠くなく隔てる中国では、どちらも不義のことをたくさんしたのだろう、といえなくはないかも知れぬ。あそこでは、きっときっと、彼らと同じように、たぶんある程度に彼らよりもっと痛烈なショックに遭遇していた人々がいるのだろう。

     国家、民族、これらの抽象的な言葉を抜きにして、残されたのはただ人間だけ。そして、戦争とは、人間自身への傷害ということだ。わたしはそう思うんだ。  

  • もう三回目だね。一回目は自分ひとり、二回目はいもうとと、三回目は高校時代の友人と。2005年の秋、視聴率の最高記録をしたためたテレビドラマ・「ノブタをプロデュース」は、先日見直した。

     弱肉強食の高校でいじめを受けた転校生・ノブタは、みらいへ不信。クラスの中で人気の王が修二と社長の子・彰とはいっしょにノブタを人気のある人に変えるプロデユース計画を実施した。あまり元気のない外見を変えることから、如何に周りの人々と付き合う方法を学んだり、クラブに加入して集団生活に溶け込むなんぞまで、修二と彰の大変な助けのもとで、ノブタ自分の努力に加わって、ノブタがしだいに人気の学生になりつつった、それと同時に、いっしょにたくさんの出来事を経歴して、いっしょに大人になってきたこの時々に迷った過程の苦しみやら楽しみやら寂しさを体験してから、ノブタがだんだん自分と未来への自信を尋ねなおしたが、三人も最後にほんとうの友達になった。 

    もっと高い点数を得るように一生懸命にがんばっろうという人生がいらない。かえってなんでもない普通の暮らしの中で、「友情」とか「愛情」とかにともに向かう一番すばらしいページを書いてしまった。

     屋上の上とすれ違う白い雲、芝生の青さほどと同じようなスポーツグランド、静かに流れている夕日の川岸、毎日自転車で通り過ぎている坂道、ほかのところで見えないきれいな風景、おまけに心のキーボードを弾くようなピアノとキターの声。 

    「青春がやっぱり最高だね」、「人間もいいものね」。

  • 今日から

    2007-12-05

    久しぶりにブログを更新させることなく、先週田舎へ帰ったついでに携帯パソコンを買っちゃったが、これからは使い放題ができるようになれるかと。

     十二月二日に行った一年に一回の日本語能力試験のきっかけで、すでに広東省に就職した副専攻クラスで知り合ったSさん、Yさんと、貴州省の貧しい山村で教師のボランテイアとして「活躍」していたL君にも再びめぐり合った。

     速く流れる時間に追い込まれた。SさんとYさんは二時間ぐらいで、L君は四日間ほど滞在できたと言えども、汽車駅の周りに販売された不衛生の食品を食べたこととて、急性腸炎の悪魔に纏わられ、吐いたり下痢したりしてやまなかった。

     皆さんはいまそれぞれの舞台に活躍しているよね、顔といわず背といわず持ち味といわず、想像通りのでっかい変化がなかったが、相変わらず親しかった。また何年間が経つと、、、 

    昨夜全部終わった。わたしも大変疲れたことから、ベットに横になると寝付いた。早朝目覚めてから、寒気に囲まれたことにもうすぐ気がした、そして本物の冬の一日がやって来た。

     

  •  ある夜十一時ごろ、夢世界の玄関に徘徊していた私に電話があった。今時広東省にある会計公司に勤めている高校時代の同窓の肉声が受話器から伝わってきたが、ちょっと驚きだった。就職前、一年に二回の同窓会だけの場合に対面していたけど、平日あまりの連絡がなかったからだ。
     
     口が利く彼女が、学園のはなほどの美しさを擁することなく、しかしなんとなくいつもの中心的だったと感じた。いま、就職先とか給料の待遇などが、仲間たちの中でトップスリーに違いない。いつも意欲的で外見から見えれば「鉄女」のような形象は印象深い。
     
     短かったご挨拶が急いで終わると、心中を吐露した。「結婚したいの、いまもうすぐ誰かと結婚したいものだ」と。無防備な自白だったが、一時どう対応したらいいのかと戸惑ってしまった。「結婚したい相手が必ず私じゃなく」ということは疑いないが、やはり大変びっくりしてしまった。
     
     いつも結婚相手への要求が高い彼女は、なぜ急に結婚したくなるのか。また若くて、結婚しなければならぬというまで行っていないのに。おそらく仲間同士のほかの女性らがすでにボイフレンドと同棲したり、あるいは婚約を定めたり、という噂の衝撃に驚かれたわけか?
     
     実は、平日いつもクールなルックを「暖簾」にして、何かが接近しにくい感じだった女性は周りにたくさんいる。彼女らの激しい出場の迫力に驚かれ、男らしい男の力がどうしても出せなく、何かが元気が萎んできた、そういう男が必ずいるでしょう。しかしながら、高等教育を受けて、世界中で女性独立運動に啓発され、一段とモダンなウーマンの方向へ邁進してきたかと思ったけれど、なんか最近のいろいろな女性の話を聞いて、まだ精神的な支えとして出てくる彼が見つけない女性の苦しそうな顔を見て、骨の中にやはりわずかな変わりがないかなという逆の印象を与えてくれた。
     
     鉄女か、それとも相変わらず伝統的なのか、一体どちらがいまの女性を描けばいいのか?
  •   寒かったんですね。お神様がさっさと昨日を終えましたが、当たり前のように今日を迎えてきました。

      あっという間に知らず知らずのうちにこの世に生まれてからすでに二十五年の歳月が逝きました。体が成熟になりましたけど、心がなんにか依然として子供のような無邪気さを保っている気がします。これはいったい喜ばれることなのかどうか、自分自身でも誰しもが明確な答えを提出してくれませんか?

       しばしば何のためにこの世に誕生しましたか、胸の中にこういうふうに自分に質問しましたけど、これまでにこんな珍しい時間を浪費するどか、愚かな疑問ばかりを質問するとかなんてしたら、いささか聡明のものじゃないようですか。

       だから、というより、むしろこれから何のためにこの世にいきなければいけないのか、質問してみたらいいですか。

       二十五年の経験を、ちょっと今のいるところに止んで考えて、悲しかった、それとも苦しかったことばかりじゃなかったんだけど、悩んでいたときがもっと多かったのは事実だと言ってもいいんじゃないですか、ということがわかりました。もしかしたら、ライフの中に美しい存在を、繊細な心で発見し、楽しみにしてきたことが決してしなっかた、そう言った人がかならずいるけれど、しかたがなく私も申し訳ないと感じます。

       いつでもどこでも一人の場面のほうが圧倒的に多いと信じ込んでいますが、少しの間にあきらめてこのままで行きようという鬱憤なときがあるものの、時間に迫れている私にとっては、この一生に「走り続けよう」という強迫症のような精神がすでに魂の中に定着したことがわかりました。でないと、何もできない私は、絶対的に生きなくなります。

       きのうの誕生日に、まだそんな多い大切な人々がそばに守ってくれたんけど、これで十分でした。ほんとうに幸せでした。

       ハッピーバースデイー、自分に!今日は伝説中のシングルの日そうなんです。11月11日、四つのアラビア数字の「1」が立つ場面がなんか的確に寂しいものですが、「一人たち」という意味も感じましたね。

     

      

  •  中国語で「年糕」と書いてあるのが、日本語でどう表すのか、ふと忘れてしまった。まずは「鏡もち」とうことばで替えればよさそうであろうと思うんだ。
     
     「鏡もち」とは、日本のお年明けには、お神様に供えてあげて、二つのかたまり形状の「年糕」でおたがいに重なる食品というものだ。この中でおかずをはさんで食べるのがふつうだそうだ。「鏡もち」を食べる動作はとっくの昔からいままで、しだいに一種の儀式となってきたが、「鏡開き」と呼ばれているとのことだ。「鏡」とは、「円満」の象徴だが、「開き」とは、鏡もちで料理するときには、刃とか包丁なんて切るのは絶対的にだめなのだが、こだちで全力を尽くしてたたくのではいい「正しい解釈でほしい」。
     
     冬の味覚の王様というと、やはりあまりうまくない「鏡もち」なのだ、と思えるのだ、とくにこんな寒い冬のシーズンの中で。
     
     中学校時代の火曜の化学夜自習が今のところになっても覚えたら大嫌い、相変わらず。男の担当先生は、体が頑丈で、目つきが冷たいので、とにもかくにも不親切のようなものが見える。もっとも耐えられないのは、そのづと授業が始まると、とりあえず質問を受ける時間だった。答えできなくなる、あるいはよく答えできなくなる学生なら、気性の悪い彼が、たけぼうきの竹を折って、たなごころを思い切って打たれる羽目になるに違いない。絶対的に許せない学園暴力だった。しかし、怒ってもワーワーと泣きたくても、どうしてもその場で高声に叫びはできなくていられない、ついに閉口のままで終わってしまった。
     
     そうすると、あの同じような冬のある雨天、夜自習前の晩御飯時間の中に、いつも必ずがっかりしたものようになったのだ。厳しい心理障害が生まれた。涙を浮かべる両眼が、テレビのスクリーンがぼんやりと見ているものの、何もが目に入っていなかったのだ。この時には、「乱太郎」の親友・「新兵衛」さんが出場した。背が低いし、体型が丸のボールのように太い。金字塔の一番底のハンサムボイズと言えないやつだった。衛ちゃんの特長は、白く、薄く切られた鏡もちを見つけると、鼻孔から地面までほどの長さのある鼻水が流れ出すだけだ。あいにくそれと見た女子生徒が誰しもが気持ち悪い、大変驚いた。
     
     それでも、そのような場面では、かわいそうな衛ちゃんではなく、かわいい無邪気な小人物の形象が白紙から立つのだ。この時こそ、いつか瞳の中で回ってくる涙が、奇跡に乾くなってきて、口元にもいつか笑顔の新月が浮いた。
     
     それから、毎週の火曜の化学夜自習が依然として行かなければいけないが、毎日、可愛い衛ちゃんが出場しだい、気持ちがもうすぐ晴れるようになって、安心した。そうして、衛ちゃんがいちばんすきな鏡もちも、私の最愛となってきた。かつてあの楽しくなかった少年が、すでにいまの活発な私になってきた。おかげさまで、衛ちゃんはこの中にきっと一役買ったと信じ込んだのだ。
     
     寒い冬の季節が、十月のこよみがもうすぐ去っていく境に、当たり前のように歩み寄ってくる。グラス越に窓外は傘の世界だった。冷たがっても、学食のウインドーの裏側に丸い皿の中に静かに横になっていた鏡もちが見ると、なんとも暖かい気流が包まれているような感じだった。
  •  毎週k先生との間の相互学習が終わってから、この一週間以来一番気に入るニュースを日本語で述べてください、という宿題発表時間に入るのである。
     
     寒い冬がだんだんこちらに歩み寄ってくるにつれて、私の脳細胞もまったく寒流に遭ったみたいに、思惟が遅れになるどころか、なんと凍えになった感じで、いったいどう答えたらいいのか、まるっきり戸惑いになってしまったのだ。
     
     日本語のブログの日々更新もよく堅持できなくなる羽目になったのに、ぜひ日々お目にかかっていただいた方々にも、おそらく心の中に疑惑と感じるかもしれないんだろうが、まことに申し訳ないのだ。
     
     とはいえ、たしかに書きたいことは、あるいは書きがいがある題材はなんとなく足らず、という不安感というより、無力感のほうが適切だと言ってもいい。以前、三日前で三日後の書きたいことを考えて、必ず決めるのだけど、いまや涸れたイズミのように、作文のインスピレーションの湧き出しが不幸に途切れてしまったのだ。
     
     これは仕方がないことなんだろう、それでは、どうしてそんなになってしまったのか?
     
     毎日、書籍の海洋のような図書館でさまざまなニュースペーパーやらマガジンやらなどを、読んでいるけれど、「速く、速く」とうながしながら、頭の中でのほかの自分が、タイムマシーンと悪性競走しているとおりに、一番速いスピードでページをめくって、一番多い情報量を目を通して、ぺろりと食べたいのだ。結果、何の栄養がわずかに吸い込むことなく、かえって消化不良になるのはおちだ。
     
     戸惑いというのは、どうしたらいいか、むしろ、そんな膨大な情報流の大爆発の時代に、ぜんぜん迷いをするのだ。いつの日にか、激しい情報流の爆撃に向かい合っている僕は、しだいに飽きだし、大変疲れきるようになったんだ。
     
     機械のロボットのように、いろいろな技術が身につけるのだとしても、理想的な知能を擁するのは相変わらず難しいだろう。言い換えば、私たちは、少なくとも僕は、日に日に単なる知識量だけが増えているのだが、知恵というのも同じようなリズムで増すのは言えないのだろう、そうと思っているのだ。正反対に愚かなものになってくる可能性があるのかもしれない。
     
     高みから見ると、問題のかぎは、たぶん他人の文字を眼でお拝読している中では、情報流を神経中枢に入らせなく、それともたたくということさえもせずに、直接胃に落ちるに違いない。真面目な顔があっても真面目の心がないのだから。孔子がいわいたごとく、「学ぶだけで考えることがなければ無駄だし、考えるだけで学ぶことがなければ怠惰」というのである。
  •  大学時代の連中・羅君がいま貴州省のある村で教師志願者として「活躍」している。何にか突然なことなので、すでに何ヶ月間が経ても、今ここにいて、この文章を書いている私は、いまだに信じられていないのだ。
     
     毎日、少なくとも一時間がかり、運転許可をまだもらわていない羅君が苦手のモーターを乗って、山の多い貴州省の数十キロメートルの旋回としている山道を、繰り返して這い上がったり降りたりして、最終に目的地の学校にたどり着くことは、送られてきたメールでわかった。晴れの日か白日の場合ならはともあれ、雨が降ったら、あるいは風がほえたら、電力施設が乏しい貧しい農村というところに加えて、ぜひ大変なんだろうと思う。いま秋が深くなってきて、シャワーなんて生活用品がぜんぜんない住所では、羅君が、毎日冷たい水を沸かさせてから木桶に入れて、そういうふうに清潔なライフを維持せざるを得ないというつらさは、いま同じように、こんな安逸な環境の下で愚痴を言いながら、大それたライフを過ごしている私は、必ずしも想像できる状況ではないか、と思うけど。
     
     しかしながら、いずれにしても、これもありがたい体験なのではないか、順調な環境の下で成長することにより、普通の人にくらべて、普段見えなくて、あるいはそんな簡単に体験できないものごとを、この体で自ら触れたり、心で感じたりするのは、ひょっとしたら今後の宝物になるのかもしれない。
     
     うらやましいなあ。いまの大学に囲まれている私の生活に、うらやましさをもらす人が少なくないが、たとえ「想像していることとぜんぜん違う」をくりかえしてもしかたがない。これはおそらく「囲城」のようなものなんだろう。城外の人は必死に入って中をのぞんでみたいけれど、城内の人はすでに中の生活に飽きだし、この城から逃げ出して解放を求めたいという願望がつよいようだ。
     
     わたしはもう「学校」というものになんの期待がなく、一心一意で外の世界へ飛び出してもっとも真実な存在に触れたいのだ。この塀のないところにもっとおちいたら、現実との距離がぜひ遠くなってゆくことだろうと考えている。
     
     自分の手でクリエートすることが自ら感じなければいけない。クリエートより、そして成果を楽しみにするチャンスがほとんどないのだから、これはいまのわたしの悲しみの根源となると思う。
     
     だから、クリエートということは、たしかに欠かせないことなのだ、そう感じているのだ。変化を恐れるのなら、遠いところで立ってもいい。破壊することにより、創造するということは、君は知るべきなのだ。
     
     
  •     高校時代の仲間が武漢に移住しました。料理が上手な彼は、駅へ迎えに行った私を、「今晩何が食べたいの?」と聞いてくれました。
     
      「ええと、カップラーメンだけがいい」
     「え、それはおいしいの?テクニックなんてわずかにないじゃん?」と不可解な顔でした。
     私は、ただ笑っていて、答えないのでした。
     
       高校時代のある夜のことでした。今もはっきり覚えています。 
     滂沱の雨の夜に、平日どおりに夜十時まで夜自習が終わってから自転車で家に帰ります。
     寂しかった街で、暗かった路地でした。ひとりの暗闇の空の下で、単に自転車の歯車がぐるぐる回っていた声だけが聞こえました。
     
       ともし火が早々と消えてきた門番の詰め所の鉄門を通り過ぎて、そして手を前に伸ばして五つの指さえも見えなくなる段階を這い上がって、直立になったレーンコートに沿って滑ってきた流れがズボンのすそを湿しました。指も赤く凍えました。
     もう何番目の段階なんか?まるで忘れてしまいました。しかし、私の家であるならば、いつも必ず門のそこの隙間から、おとなしい老人のように、静かにかすかな黄昏色の光が流れてきました。それはきっとおばあさんのベットのそばのスタンドの光でした。
     ドアを開けて入って、レーンコートを脱いで目をさえぎるその一瞬、おばあさんがもう起きて、目の前に出ていました。
     
     「今晩何が一番食べたいの?」
     飢えるかないか、従来余計な尋ねみたいでした。
      「うんん^?」
     「毎晩、Cさん(小学校時代の友達)のおばあさんが孫のために二つの蒸したまごをつくってくれたそうなの。彼の体がおまえよりきっともっとたくましくなったのはおかしくないのよ!」
     「それじゃ、たまごと決めた」
     お湯で両足を洗っていた私と、台所の中に揺らいでいた光の影と生水が沸かされた声。
     
       しばらくして、湯気が漂っていたカップラーメンと入った二つの蒸したまごが手元に送られてきました。
     弾力のよいラーメン、黄身が溢れてきたスープ、さっきほど凍えになった両手が熱いおわんに触れるとかゆくなってきました。
     窓外の豪雨が鉄格子をたたいていた。風が不意に吹き込んで、すぐににおい香りが満屋で漂っていました。
     すると、窓を閉じて、風が止んで人も眠りになってきましたが、たったの暖かい胸が残されていました。
  •   国慶節のことだった。明け方の六時、東側の窓からは朝の光がトイレットにさしのぞいていた。うんと早く起きた私は、彦君の白いスポーツウエアと芬ちゃんの青いジーパンを洗っていた。
     
       このときこそ、彦君と芬ちゃんは私のルームのなかにすやすやと寝ていた。
      あれ、このふたりはなぜ?出た!武漢での大学時代に知り合った二人の親友・君と芬ちゃんは、なんと自宅の寝室に出たのにどうしても不思議を感じていた。
     もとに二人が国慶節のゴールデンウィークを利用して私のふるさとに旅行しにきたのだ。
     
      一番目の夜。三人は沙市の繁華街でリョクトウジュースを飲んでいた。
     
      二番目の日。中山公園、章華寺、万寿園。中山公園で芬ちゃんの強い誘惑のもとで、人生の初めで、たぶん唯一の一回と言える、360度回転の飛船を乗っていた。三分間だけの刺激的な時間帯に、三分間足りの持続で、ワッワッと大声でクライしていた。終わってから飛船から降りて、全身がもう汗に浸られていた、と気づいた。
     
       章華寺で、はなやかな大雄宝殿を眺めると、アッとくんが叫びだした。こんな華麗なお寺が見るのは初めなのだらしい。写真撮りがひどく愛好する彦くんは自然にこの風景を見逃さなかった。しかし残念ながら、こんなにきれいな建物の前に、スポーツ全能の天才で、贾宝玉のような美少年の彦くんの写真がいつも黒い顔で、ぼんやりしていた。お寺から出てくると、芬ちゃんのかばんは非常に重くなってしまった。なぜなら開けてみると、四、五冊の非売品のお経がいっぱいに詰め込まれたと発見したからだ。
     
      万寿園で、明朝中後期からずっと長江の岸にそびえている万寿宝塔が、底に滔滔と流れていた揚子江の上にそびえている二十一世紀の代表的な建物・荊州長江大橋とお互いに輝いていた。夕日のひかりがだんだん西に沈んできて、すべての風景をゴールデンなものに染められた。
     
      三番目の日。荊州古城。楚文化・三国文化・明清文化、三つの時期の文化を一身に溶け込んだ古城である。すでに六百年間の年月につらぬいた雄大の古城壁が無声に歴史を述べていた。かつて大人物・関公としての将軍府の関公庙増築方案が計画通りに実施されているそうだ。荊州博物館のなかに千年沈睡していた西漢古死体が毎日数千人のお拝見を受け入れている。
     
      二日間の短い旅しがあっという間に終わった。残夏の威力のおかげで、僕達は大変疲れた。今日もうんと目が覚めたのだけれど、秋の一日が知らず知らずのうちに始まると気づいた。
     
  • 体験式訓練!

    2007-09-29

       きのう、残暑の蒸し暑さを一掃し、秋の季節風が東湖の波打ちを乗って岸辺の湖北陸軍のある訓練基地に吹き込んだ。ここで、三人の友人といっしょに一日中の体験式訓練を体験する。
     
      当日ここに来た体験者はある涂料会社の職員たち。20歳ぐらい若者から50歳左右の中高年職員が全員で寒かった風の中に元気そうな様子だった。基本的な訓練から難度が高い項目練習まで、もとに「これらの社会人がきっと無理なんだろう」と思ったとしても、年をとればとると、皺が浮き沈みしている顔に子供のような無邪気な微笑みがもっと輝いていたことが事実だ。
     
      中国語で「拓展訓練」と書かれてある体験式訓練は、第二次世界大戦のとき、加盟国の海軍たちがナチスドイツの猛烈な戦火の中に苦戦。最後、あの「身体質素も心理素質もよく、また生き続けたい欲望がつよい、とくに四十歳ごろか四十歳以上の者は」が最終に残されたことに、たくさんの社会学者らに注意した。そうして、なぜこれらの兵士らが生存できるのかとか、このなかの秘密はいったい何か、という相関の研究に取り組み始めた。すると、拓展訓練というものは、誕生して、時代の流れにつれて、理論上も実践上もだんだん充実したり、模索したり、今日まで発展してきた。20世紀半ばに香港から中国に伝わってきたそうだ。
     
       これらの職員たちのそばにずっと静かに眺めていた私たちは、遠くない未来になかの一員になるのだろう
  •    さまざまな品種のリンゴを販売しているフルーツ・ストーリで、この目眩がする品種からいちばん上品なものを選び出すことはむずかしいのでは。もっとも短い時間帯の中でもっとも速く、正確な商売ができるのは、カギはいったい何か?

      まずは、外見は美しいこと。大きく、きれいなのはお腹がいっぱいになっても意欲的な購買欲が強いことなのだろう。次は、病気にならないリンゴ。いろいろな害虫に免疫的なリンゴはどうしてもベストセラーのリンゴのなかの王様である。そうして、このカギを身につけるフルーツ愛好家は買い物のとき、必ず便利になると信じ込む。

      同時、この世では、リンゴおよびほかのフルーツとか植物の品質改良のために一生懸命にがんばっている人々がいるわけだ、日本国際協力機構「JICA」から、いま日中協力林木育種プロジェクトに勤めている長期専門家・生方博士がこのなかのひとりである。

      実は、生方博士はリンゴ樹方面の専門家ではないのかもしれないが、長期以来、植物の品種改良のために、毎日、研究対象となる植物を観察したり、葉や果実を摘み取ったりして、、この同樹種のなかの優良基因を選び出して再融合することによって、樹木の品質改善を実現させるために実験とか研究を行っていく。

      植物の品質改善は、一方で、遺伝基因改善を通すことが必要なのだが、もう一方で、生長環境の改善も重要なのことだそうだ。わずかな成功のためにたぶん何年か十数年の歳月をかからなければいけないのかもしれないが、こんな中断のない努力によれば、生長スピードが速く、品質がよく、害虫に免疫力がつよい新しい樹種がいつの日にきっと誕生できるのだ。それとともに、収入倍増、地域経済の活性化、生態環境の改善、などとの優れたところが出てくるに違いない。

       生方博士が、きのう華科でこんなすばらしかった講演をくださった。報酬なんて不関心を持って、ただ植物の世界に黙って黙って努力しているすばらしい方だそうだ、恵みを享受している植物も人間の私たちもぜひ十分な幸運を感じるのだろう。この方面で技術力がある日本からもっと多い経験と知識を学んで、中国の生態環境改善というより、世界の環境再生のためにももっとチカラを尽くしてほしい。

  •    国慶節のゴールデンウィークの後、院部の教務課へ当番しに行くことを強いる。一週間以内、すべての当番時間を合わせて総計一日中の時間量を達すことが要求される。
     
       きのう、四十分間ぐらいの協調会議が終わったら、ここに勤める毎人が、毎週少なくとも半日間の授業をサボらなければならなくようになった。具体的原因なんてここに説明したくない。
     
      求知心を満足するために高価の授業料を払って、図書館で自習するはずだった貴重な時間を、院生補助金のために行政部会へ雑務を働きに行かなればいけず、これは絶対的にだれにも受け入れることではないことであろう。しかし、おかしいことは、私自分を含めるみなさんは、合理的な権利のために戦いに行かなく、かえってあたりまえのように思いをして、従うということだった。
     
      怒りが胸にいっぱい、堂々に最も声をあげて発表できないのに、新世代の中国人若者が昔のことをくりかえしている。
  •    流石に中秋夜の月だね。昨夜の月が、暗幕の空にぶら下げられ、さほどまっ丸く、少しも汚れのない純潔だった。
     
       三人のいい仲間といっしょになって、食事をしたり、カラオケをしたり、自由自在に何のご心配なく、道化したりしていて、きわめて楽しかった。
     
       大学入学したところのことを、いまもはっきりと覚えている。同様の中秋月夜のもとで、新しく知り合ったクラスメートらと、露天のスッポツグラントで丸月のカタチに囲まれて座って、そして薄紅の水桶のなかに一つ一つろうそくをともした。
     
       空に明るかった月があり、地球のどこかの一隅でピンクの光蘭を輝いていた月もあった。
     
       あのとき、よく知らなかった異郷にきたのは初めなので、ホームシックにかかって、「なぜ月がお別れのときこそまっ丸くなるのか」と自ら切実に感じた。
     
       明るい月はいったいいつか姿が現れるのか、酒をいっぱい注ぐカップをあげて、暗闇の空へ問う。天上の神殿で今昔は何年なのか、知らないね。
     
       極楽な時の流れも終着点があったろうに、心の中にこんな名曲を黙って吟唱しながら、木立の上に浮き沈みしていた月を眺めていた。
  • 武士の一分!

    2007-09-24

     毒見役とは日本封建時代に藩主のために試食する、という職責を履行する官僚である。一般に、身分が卑しい低級武士に担当するとのことだ。食べ物は毒があるかないかを確かめられ、安全性が保障できてから、また藩主の目の前にささげられるという。
     

     名俳優・木村拓哉が、日本の有名な監督・山田洋次氏によって、お撮りになった映画・「武士の一分」の中では、こういう小物に扮するのだ。
     

     優れた実力者の武士として、備えるはずである勇武を持つのだとしても、わずかに変わらず、つまらない毎日の試食生活を生きてきた木村が、才能を買われるどころか、一回の日常的な試食後に、食物に含む天然的毒元素のせいがあるので、不幸に中毒して失明になってしまった。これから毒見役をやらないと伴って、妻・加世との暮らしが想像しにくい苦境に陥ってしまった。ひとりで家庭の負担を担ぐ妻が、深く愛していた夫のために、もうひとりの高級武士に援助を求めざるを得なかった。あんがい、身体を交換条件にしなければいけないと脅迫され、この結果がいうまでもない。
     

     こんなに決して許せないことを知ってから、武士としての尊厳がたいへん傷けられたろう、ひどく苦しさを感じ、うっぷんをもう抑えられない木村が、妻を離縁して、そうして、あの卑下しい高級武士と決闘しにいくと決めた。
     

     映画の結末は、高級武士は武士にとって欠かせない片手が刺されたから、自殺した。妻が最終に木村のそばに戻ってきた、という比較的な円満な結末である。
     

     実のところ、最初には「一分」という日本語ことばの意味がわからなかった。電子辞書で調べてから「めんつ」とたいてい同じような意味がわかった。男の人に対しても、とくに武士に対しても、「尊厳」ということが生命ほど重たいものがある大切なことである、たしかにそういう言った人がいる。これは女の人にも適用だと言いたい。しかし、妻にとっては、ほかの事を何にも考えず、ただ夫の命を延ばそうとする思いが胸にあふれているのに、何にもできってやられないときこそ、ぜひ極度に辛かったろう。いわゆる「尊厳」ということを失うことと比べて、永遠に夫を失うことはきっともっと痛がることであろ。
     

     一心一意に夫をこのままで死にさせたくなく、愛のために自分の尊厳をほうげ出すことが、男の武士にとっては絶対的に死去ほどもっと耐えられないことなのだが、女の妻にもしかたがなく、悲しがらせることなのだろうとそう思う。
     

     あの時代に、男の人は「尊厳のために」生きてきたが、言葉にならない愛のために彼のうしろにひっそりひかりを咲いていた、こういう女の人がいるわけであろう。こういう女性には、肩に担ぐことは男性の角度からみると、ぜひ考えられないことなのだろう、と思う。
     
     
    k先生のお勧めのもどで、夏休みにこの考えがいの映画をお鑑賞いたしました
    、ありがとうございました。

  •    毎日明け方の七時、寮付近の食堂が時間通りに緑色の海に染められる。身長がますます低く小さくなってくると見える女子一年生が、広く大きい軍装がなんとしても身に合わないようだ。
     
       九月五日から始まった大学一年生入学軍事訓練は明日の二十一日までようやく終わるそうだ。十七日間に持続し、訓練料がいくらか?「百元ぐらいか」とか、「三、四百元左右」とか、「授業料といっしょに払ったので、あんまりはっきりと知らなかった」など回答だった。二零零三年、入学したばかりの費用が百五十元だった、と覚えるのだが、いまただ高騰の食用ブタ肉の価格のように限りがなくてほしい。
     
      「どんな訓練を受けていたのか」と尋ねた。
     「ただ左回りとか、右回りだけで」「斉歩行とか正歩行とかなんて」と、言葉の裏には少々疲れて不満げな顔で、朝ごはんをしていた三人の一年生からわかった。
     
       中学校入学から、高等学校入学も含め、現在の大学入学まで、十年間ほど歳月が流れても、やはり訓練中身がほとんど変わっていないと言えよう。 
     
      「単に苦労をするために」という軍訓の狙いが聞こえてくる。
     すると、強い日照りのもとで長く立っているままとか、雨の中で走っているようになる。これらは核家族出身が多い一人っ子らにとっては、いったいどんな意味を持っているのか?日光に長く当てるので、命を落とした学生の不幸事件が出た、という報道があるそうだ。このために、軍事訓練の強さが、実効性のある身体鍛錬が保障できる一方で、どんなレベルに留まってはよいか、大きな課題になった。
     
      「国防法」による軍事訓練履行義務が付けられる一年生は、明日、十七日間の刻々にそばにいた指導教官と別れる日である。文句を言ったことがあるとしても、名残惜しい悲しみが誘うか、泣かされる女の子が必ずいるわけだ。これから本格的な大学が幕開け後、こんな大事にしたい気持ちで、円満に大切な四年を歩き抜いてほしい。
  •    今を大事にする人は一番賢い人である、という言い方がある。今の私は、残念ながらおそらくまだこの行列に入っていないからだ。
     
       どこへ行けばいいかな、とよく考えている。立っても座っても、どうしても平気になれない心境。一番東の辺の教室で自習するが、一番西の辺の食堂で食事をする。このとき、自転車が親友のような、大切な宝物となった。
     
       教授が教壇で、「私の観点と積極的に弁論してください」と心を込めて呼びかけたが、依然として向かっていたのは沈黙な学習道具であった。「私の考え方を反対してもらえるのか」ともう一回にアピールしたが、逆にもっと静かになってしまった。たぶん一人か二人の活躍している人がいるのは貴重だが、臨時に燃やされた情熱が、このところから出てくると続けるのか、あるいはこれからまたこんなことを重ねることができるのかな。
     
        あの呼びかけた教授は、独立の精神を保って、知識界のエリートとして、正義感のある自分自身の声音を出すのか。
     
      「異」風景が見たくなっていく、「異」声も聞きたくなっていく。
     明日の来ることを切に希望しているのだけど、今日は何も変えなければ、明日というのはただ「またの今日」のくりかえなのではないか。だから、明日が見えない感じのせいか、こんな「憂鬱の病気」にかかたのか。
     
      やはりおろかなやつだなあ。移り変わっている毎日の風景の中に、いつまでも変わられない信仰のことと発見したい。
  • 夜の梧桐雨!

    2007-09-15

     「秋雨梧桐葉落時」という季節がやってくる。夜の梧桐天下のキャンパスを散歩していたら、元朝の詩人・白朴氏によってお作りになったこの有名な「梧桐雨」という詩句を思いだした。
     
       毎年の十月一日の夏秋の季節境目は、今年予定の期限を繰り上げて来たようだ。気温はお昼になっても三十度を上回ることが難しい一方で、少々寒がらせる秋風が起きた。
     
       囲碁の盤のようなキャンパスは夜になると寂しすぎるようになる。雨の夜の様子がさらにいうまでもない。歩み響きや自転車のタイヤが地面との軽い摩擦音は、自分自身で聞こえるだけで、言葉が話さない会話みたいだ。
     
       どちらかが吹いてきた秋風はいつのまにか知らず知らずのうちに身の回りを囲んだ。高大な梧桐樹がお互いに手を引いて、サーサーという関心が満ちる暖かい声を立てた。秋の黄金色が浸透していた枯れ葉が、暗幕の空から降りてきて、雨のようだった。月の神様が寒いのせいか、挨拶さえもせずにして、雲の後に隠れてしまった。かすかな街の明かりだけが残されて静かに立って、黒く、固い地面に照らして、枯れ葉らを地面にそっとそっと到着させてくださった。街灯のひかりのおかげで、盛大なパーテイーが幕開けだった。道端での吹きだまりの方がいるのだけど、もっと多くの葉が加入した。風を乗って、空から落ちてから舞い上がった。遊びのすきの子供のように自由自在な姿が美しかった。
     
      葉らは必ず同一の樹木の子でなく、平日自分の王国で生きているのだが、今こんな空のもとで出会えるのはありがたい。そして、新しい仲間ができて、新しい旅立ちが開始だ。
     
       私は、これからの人生に誰かといっしょに手を引けるのかな。
  •   午前中、四つの「二十世紀中国経典作家と東西文化研究」という授業があった。「文学」を「玄学」に変わりさせて授業してきて、ほかの大学教授に批判されるそうだった科目先生が、やはりめまいがさせてくれた。
     
      小学校からずっとマルクス主義学びを強いられている私は、大学院生の段階までもこの科目のアナから逃げ出されないのだ。ずっと疑問を抱えて勉強してきた私は、唯物論を根本にするマルクス主義にただたいていの了解だけだが、信仰していくまでにまた遠い。
     
      しかし、きょうの授業の中に、先生が教えてくださった課程内容が、簡単にマルクス主義とは正反対なものだと言えなくても、いくつかの点ではおそらく違ったところがあるようだと思う。ここで詳しく述べるのなら、おそらく紙数足らずという恐れがあるので、ここで贅言させなくていただけるのはありがたい。
     
      実は、言論自由の社会では、「異声」という状況が出た場合、これに対しておかしがる不思議な感触が完全にないわけだ。かえって異見そのものに異見を出す権利が法律で保障され、そうして堂々に論争され、最終に大多数の人々に認められた真理が残されて広く伝播されていくわけだ。かんぺいな過程だが、もしそうではなければ、この社会はまだ成熟な実体に発育しないとしか言えないのだ。
     
      いまの中国では、「価値観混乱」という言い方があるのだが、言い換えば、「価値観多様化」という時代が無声に来る。ただ各種の思潮に対するときに、よい準備がまだせず、僕達はおろおろしているにすぎないのだ。大洋を航行している小船のように、突然に方向感を失って、なんの帆のような信仰がギリギリ間に合って支えになれるものが欠けるときに、暴走する危険があるのだ。
     
      こうして慌てふためている状況の中に、物質への追求すぎることは徹底していて全民の精神的帰属となるときに、平凡な時代を生きていると言えよう。
  •  金曜日、夜七時。滔滔と流れている黄浦江の東岸に雄大にそびえてある「東方明珠テレビタワー」がまぶしくて、輝いていた。西岸に、万国洋風建築群が多く集まる外滩もちらちらとちらついて、ゴールデンの光が目の前に広まった。目まいがさせる立体交差橋の上に金色の車の流れがたえず走っていて、まっすぐに遠い空の地平線に伸びていった。
     
     ほかの裏町が「黒と赤が交じった世界」になってしまった。タクシーの車窓でも建物のかべでも地面でも、全部で「愛してる」とか、「私のこと、好きなのか」とかなどの愛の言葉が口紅でいっぱいで書かれてあった。ふたりの異国の恋人は雨後の夜空のもとで恋をしていた。もとに「黒」というのは暗幕の空で、「赤」というのは愛のしるしを象徴する赤い口紅である。
     
     これは中日両国の名俳優によって共同出演の映画・「夜・シャンハイ」のなかの画面であった。
     
     シャンハイはやはり武漢より都会だ。華やかな映画のなかのシャンハイ風情と比べてみると、華科構内の露天映画館の現場がまったく想像がたいのだ。泥臭いベンチが小さな丘の坂に沿って建てられ、いくつかの歳月を経たのかは知らず、いま倒れそうていた。地面からヒザまで生えてきた雑草がしげて、久しくきれいに片付けられなかったと見える。彼らの家にそそっかしくお邪魔したのか、草むらに寝付かれない蚊が、スクリームのひかりを借りられて、激しい猛攻を発動し始めた。いつも静かに映画を観賞することがすきる私は、我慢したくてもしかたがない。結果、映画をじっと見ながら、蚊との戦いを始めなければならなかった。寮に帰ってから鏡の中の自分を見たら、完全に負けてしまった、ということが分かった。
     
     施設がえらく粗末すぎるので、「学校案内」という小冊子に紹介された伝説的なロマンテイクな感覚とはぜんぜん違った。母校の映画館が適切で、豪華だと惜しみながら、革命時代の映画館がいままで残されて、しかも使用されているのはなんとなく不思議を感じていた。
     
     しかしながら、父親のあの物質が乏しい時代に、いまの場合から見ると大変粗末と見える映画館で一編の映画を見ることができるのは、ぜひ大変贅沢なことなのだとうと思いあたった。
     
     また、現場の観衆らがみんな一心一意で映画の世界を楽しめにしていたね。